宮崎市定『西アジア遊記』(中公文庫版)を読んで「イスラーム世界」研究と「東洋史」の研究について若干考えた

先頃某国からカイロへ来ていた方に「宮崎市定西アジア遊記のエジプトについて書いているところが非常に面白い」という話を聞き、そういえばちゃんと読んだことがなかったので、借りてきてぼちぼち読んでいる。宮崎市定のキャラクターにもよるだろうが、確かに面白い。現在のエジプトと人間はそう変わっていないと思わせる内容だ。
さて、中公文庫版には本題の「西アジア遊記」の他に、「西アジア史の展望」が第二部として収められており、これもなかなか面白い。特に冒頭にある「まえがき」では「世界史のための西アジア史」という観点から彼の考えを述べていて興味深い。

近頃、回教圏研究の必要が唱道され出した。ここにいわゆる回教圏とは、大体において東洋史西洋史がこれまで等閑視し来った西アジア地域に相当するので、そこの歴史が新たなる意義をもって再認識されんとしつつあるのは、まことに喜ばしい傾向である。(p. 181)

これを読むと、微妙なニュアンスではあるが、彼は「回教圏研究」=「西アジア史研究」とは思っていない。
つまりもし「回教圏史研究」があったならそれは西アジア史研究の一局面である。そしておそらくこの考え方は「東洋史学」出身の西アジア史研究者にはかなりの部分共有されているのではないかと思う。周知の通り、つい最近まで日本のイスラーム世界研究は歴史に偏っていて、主に東洋史学研究室を中心に研究・教育が行われていた。「東洋史」は西洋における「東洋学」とは違う。宮崎市定によれば、

西洋人にとっては、ヨーロッパの歴史を中心として、それに若干アジアの歴史を付け加えれば、それが世界史になると考えてよかった時代がかつてあったのである。しかし、それではわれわれ東洋人にとっては不満なので、明治以後、日本の学者が率先して、中国の資料を土台にして東洋史なるものを造り上げた。(p. 179)

ということのようだ。僕もこの見方に賛同する。
つまり戦前の回教圏研究は、もちろん戦後の研究に様々な影響を及ぼしたとは思うが、それがそのまま戦後になって「イスラーム世界」研究に移行したわけではない。むしろこの宮崎市定が道を示したような「西アジア史研究」というものがその主流となったのではないかと思う。それは「東洋史」のやり方が色濃く反映したものではなかろうか。
僕の所属していた大学の研究室では伝統的に研究分野を「東」と「西」に分類する習慣があった(と僕は思っているのだが)。これは東洋史学の中での東西、すなわち中国(とその周辺諸国)史とそれ以外(中央アジア西アジア)という区分である。イスラムの人、と言われることもないではないが、それよりも「西側」というアイデンティティが強い。これは基本的には史料に漢語史料を使うか、それ以外の言葉で書かれた史料を使うかという差でもある。イスラムの人、というよりは、アラビア語の人、ペルシャ語の人、という考え方が強い。多分僕の中には「イスラーム世界の歴史を研究している人間だ」という考え方はほとんどない(ただしわかりやすさや聞こえの良さのためにそう言うことがないわけではない)。
話がだいぶ逸れたが、日本における「イスラーム世界」研究に関して論ずるには、このような日本独自の「東洋史学」事情も考慮に入れなければならないと思う。

日本における西アジア研究は、ほんの今始まったばかりだと言って差支えない。研究の最初に当って、まず第一歩を誤ってはならない。すべての偏見を離れ、あるがままの事実に即して、価値を評価することこそ、日本学の特色とし、誇りとしなければならぬ。

現地を見ている宮崎市定の言葉だけに、重みがある。そして、このような理想が注入されたであろう日本の西アジア史研究、その一部分であるイスラーム世界史研究を、「イスラーム主義者の立場に近い」「戦前戦中以来の(回教圏)研究視角の継承」(羽田正『イスラーム世界の創造』p. 281)であると言ってしまうことには、僕はどうしても違和感を感じてしまうのである。