文字/エクリチュールに関する文明間比較

別の所でも書いたが最近仲正昌樹『「分かりやすさ」の罠−アイロニカルな批評宣言』(ISBN:4480063021)を読んだ。その中で若干研究的に興味のある部分があったので備忘的に。
その本の中でプラトンソクラテスにおける「話し言葉の書き言葉に対する優位」が語られている部分があった(p. 137-)。これはいわゆるパロールエクリチュールの話だが、これで僕が思いだしたのが武田雅哉蒼頡たちの宴』で読んだ「蒼頡が文字を発明したとき、鬼が泣いた」という話だ。手元に本がないので、詳細な内容や武田先生の解釈などは思い出せないが、こういう考え方とプラトン的な考え方を比較できるとなにか面白いかもしれない。
翻って、イスラーム世界を考えると、なかなか難しい。一般にイスラーム世界では口承が書物より重視される傾向があると言って良いと思う。しかしクルアーンは書かれたものだ。ムハンマドは啓示を受けて神の言葉として「語った」。だが、もともとクルアーンは天上界だかどこかに存在する究極の「書物」に書かれているものと同内容である(ということだったと思う。大川玲子さんの新書を読めば確認できると思うが残念ながら手元にない)。ムハンマドの言行で後に法規範となるスンナは初め語られ、後にある種の聖典化が行われた。
そういう意味で、イスラーム世界における話し言葉と書き言葉の関係はなかなかに複雑である。まあ例によって誰かが既に研究している気はするが。