手紙とか書簡とか

小家族的親密さの圏内では、私人たちは彼らの経済活動という私生活圏からも独立なものとして自己を理解する−それはまさに、相互に「純粋に人間的な」関係に入りうる人間たちとしての自己理解である。その関係の文学形式は、当時においては手紙の交換であった。十八世紀が手紙の世紀となったのは、偶然ではない。個人は手紙を書きながら、自己をその主体性において展開する。近代的な郵便通信の初期においては、手紙は主としてニュースの輸送手段であったが、それはやがて学問的交信や家族的挨拶の役にも立つようになった。しかし、夫には「愛と貞節を先ず」表示し、父上や母上に孝行を約束した十七世紀の「本格的な」家族書簡でさえも、無味乾燥な通信、「ニュース」を内容としており、これがやがて独自の項目として自立化をとげた。これとは反対にヘルダーの許嫁はすでに、彼女の手紙が「記事以外のものでなくなる」ことを怖れ、「あなたはきっと私を一かどの新聞記者だと思うことでしょう」と書いている。感傷文学の時代には、手紙は「冷たいニュース」よりは「心情の披瀝」の容器であり、報道は、たとえ言及されたにしても、ことさら言いわけを必要とした。手紙はゲラートに多くを負う当時の流行語でいえば、「魂の生き写し」であり、「魂の訪れ」とみなされた。手紙は熱い胸の血で書かれ、涙ながらに読まれるものでなければなかった。心理的関心は、始めから、自己自身と相手との二重の関係で生じた。自己観察は、相手の自我の心のそよぎと、一方では好奇的な、他方では共感的な関係をとり結んだ。日記は発送者あての手紙となり、自己について語ることは、見知らぬ受信者あてのモノローグとなる。いずれも小家族的に親密な人間関係の中で発見された主体性の実験である。
(ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』、pp.69-70)

若干ながら手紙とか書簡とかを扱った研究もしているのですが、今までは単なる通信の手段としてしか見ていなかったので、この例はかなり新鮮でした。僕のやっているのは中世中東の文脈なので近代ヨーロッパでのあり方とは全く違うと思いますが、いろんなところで手紙や書簡というものがどう認識されていたかもそのうち調べてみたいと思います。
奇しくも中国古代の書簡については佐藤武敏『中国古代書簡集』(講談社学術文庫、2006年)が出ているようなので、まずはこれでも読んでみます。あとはとりあえずギリシャ/ローマ期で良い本があれば読みたいですね。