ホッブズと信念

ホッブズは、意識と良心とをともに意味する<conscience>を<opinion>と同一視したが、これは後に大きな影響を与えた媒介項をなすものである。ホッブズは周知のように宗教的内乱の経験を手引きとして『リヴァイアサン』(1651年)の中で、君主の「権威」(auctoritas)のみにもとづき、臣民の確信や信条には拘束されない国家を構成する。臣民は国家機構として客体化される公共性からは閉めだされているがゆえに、彼らの主義主張の争いは裁決不可能であり、それどころか政治の領域から全く追放されている。内乱は宗教的に中立的な政府当局の独裁下で、終結する。信教は私事であり、私的信念である。それは国家にとっては重要ではない。国家にとっては、どの宗派も他の宗派なみの価値しかない。こうして宗教的良心はたんなる意見となる。これに応じてホッブズは、「信仰」(faith)から「判断」(judgment)にまで及ぶ「意見の連鎖」を定義している。彼は信仰や判断や推量などのすべての作用を、「意見」の圏内へ引き入れて水平化する。「良心」も「人の固定的な判断や意見以外の何ものでもない」。「良心」と「意見」を同視するとき、ホッブズは真理としての自己主張を前者から取り去って後者に与えようとするわけではないが、それにしても彼は、宗教と財産を私有化し、市民的私人を教会や身分国家的中間権力などの半公共的拘束から解放することによって、彼らの私的意見がかえって勢力を得るようにした推移に、彼なりの精神史的註釈を与えていたのである。ホッブズが宗教的信念の価値を格下げにしたことは、実は私的信念一般の格上げに通ずるものだったのである。
(ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』、pp.129-130)

ハーバーマスの論の展開とはあまり関係ないが、このあたりのホッブズの話はイスラームの国家機構の変遷を考える上でのひとつの手がかりになるような気もする。対照の対象として。
それはともかくこういう本を読んでいると、「結局普遍的に学問をやらなくてはどうしようもないんじゃないか」という気にさせられる。現代の研究状況では完全に不可能だし、関連領域を網羅することさえも不可能に近いのだが。