群衆と記憶

(前略)
論理学の説くところによると、多数の証人の一致した意見ということが、ある事実の正確さについての最も有力な証拠の部類に入れられている。しかし、群衆の心理についてわれわれの知っているところからすれば、論理学の解説が、この点に関してどんなに誤っているかがわかる。最も疑わしい事件とは、確かに、最大多数の人々によって観察された事件をいうのである。ある事実が、幾千人の目撃者によって同時に認められたということは、すなわち、その事実の真相が、一般に認められた流説とは、普通大いに相違するということを意味する。
上に述べたことから、はっきりといえることだが、歴史書は純然たる想像の所産と見なさなければならない。歴史書とは、よく観察されなかった事実に、後日捏造した説明を伴わせる想像的記述にほかならないのである。
(ギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』講談社学術文庫、1993年、pp.55-56)

原著が1895年、初めての邦訳が1910年ですので、いろいろなところを割り引いて読まなければならない本ではあると思いますし、この部分も前後の論理が上手くいってないんですが、この問題提起はなかなかに刺激的ではあります。
この話の前提として、群集心理による集団の判断力低下・認識力低下があり、そのためなにかのきっかけである一つの事実が提示されると、それが感染的に広まって、その集団の認識となってしまう、というル・ボンの考えがあります。それ自体は現在のいわゆる集団行動に関する社会心理学では証明されていない、むしろ否定されてきている話だと思うのですが、群集の証言の性質に関しては、経験的にそうであってもおかしくないように思います。このあたりの「記憶」に「集団として行動すること」が与える影響の評価について、もう少し詳しく論じているものを読みたいところです。まあただ「歴史」は必ずしも「群集」の記憶や証言によって書かれたものではない、というツッコミは必要でしょうけれども。
もう一点、ル・ボンは僕がこの本を読んだ限りでは、社会心理学者というよりも、「群集心理」という新しい視点を社会分析/歴史分析を行った人、という印象でしたが、引用したような箇所が後の歴史学の方法論に影響を与えたのか、という部分に興味があります。フランスのいわゆるアナール学派的なものとの親和性はありそうで、調べれば出てきそうな気もしますが、フランス語読むのは面倒だなあ。
なんにせよ、このあたりは奥がありそうで、生半可な理解では援用できそうにないのがつらいところです。