W.A.ピアズリー『新約聖書と文学批評』(ヨルダン社、1983年[原著は1970年])

エスに関する史的知識を支える堅固な基盤の追求は、共観福音書――マタイ、マルコ、ルカ各福音書――相互の文学的関係(literary interrelationship)の研究をもたらした。それらは、十九世紀に理解されたところによれば、史的記録として最も見込みのありそうな資料だったからである。
だが、文学史的に見て、これら三つの文書の間にどのような関係があるのかということは、極めて困難な問題であることがわかってきた。ある点では、結論に到達できるが、別な点では、まだ論議が続いている。マタイ、マルコ、ルカ各福音書は、何らかの密接な関係のうちにある。それらは、[記事の]配列においても、言葉づかいにおいても、非常によく似ているからである。
他の福音書との関係について述べている福音書はなく、「外証」、すなわち、これらの福音書の著者や資料に関する後代のキリスト教著作家の記述は、ずっと後のものであるし混乱しているので、福音書の相互関係を理解するためには、あまり価値がない。そのような古代キリスト教の伝承は、従来しばしば重視されたが、[今日では]マタイ、マルコ、ルカ各福音書の文学的関係についての判断は、福音書そのものの比較から出てくる固有の蓋然性に基づくべきものであるということが、ますます明らかになりつつある。
初期キリスト教著作家たちは、皆、何よりも、福音書使徒的権威に関心を持ったのであり、初めから単なる史的相互関係に関心を持ったわけではない。したがって、マタイ福音書が最初に書かれたとする古代キリスト教の所説は、元来は、これが最も重要かつ最も権威を有する福音書であるとの判断(正典諸文書の配列にも反映されている見解)であったのである。
二世紀以後の資料が、共観福音書相互の現実の文学的関係をめぐる何らかの史的記憶とか、まして、それらの時間的先後関係についての正確な情報とかをとどめているなどということは、極めて疑わしい。
(pp. 125-126. 原文は一段落として書かれている)

少し古いが、新約聖書福音書についての基本的な態度を示す一段。文書の残り方は異なるが、最後の一文、「二世紀以後の資料が、共観福音書相互の現実の文学的関係をめぐる何らかの史的記憶とか、まして、それらの時間的先後関係についての正確な情報とかをとどめているなどということは、極めて疑わしい」というような意識が初期イスラーム時代史においてもある程度前提として共有されていたならば、もう少し僕にとっても楽なのだが。
そのような懐疑論に対立しているのが伝承経路の鎖(イスナード)が明記されているという事実であるため、その信頼性を肯定するにせよ否定するにせよ、まずはこのイスナードに関する態度を明らかにするための研究が必要となる。なんとも迂遠なことである。