学問と(心理的)厳密性

ここで、こうした新しいヨーロッパというものが、多くの誤謬から形成されたことを注意しておこう。十九世紀以降の専門体制下の科学者は、「真実」を語ることを強制されている。十七世紀の数学者たちは、むしろ多くの誤りを述べていた。
おそらく創造のためには、「真実」を語ることが、それほど有効ではないだろう。まだ「真実」が保証されないような、あやふやなことを論じあう中で、たとえその九割が虚偽だとして投げ捨てられようとも、残りの一割の中から<真理>が姿を現してきたものである。少なくとも十七世紀はそういう時代であった。
(中略)
じつはぼくは、現代でももう少し科学者たちに誤謬が解放されているほうが、創造のためにはよいと考えている。十割の真実ばかりが語られるよりは、九割とまではいわなくとも、五割程度の虚偽を伴った言論のほうが、創造を刺激するのではないか、と考えている。
森毅『魔術から数学へ』(講談社学術文庫996、1991年)、p. 213)

最近自分の中で「適当なことを書くモード」が高まってきたところに、タイムリーな言葉。

ぐっと矮小な例で言うと、京都大学には人文研究所というホラフキ文化人のたまりがあって、戦後文化に刺激を与えてきた。人文研の現在の人の説によると、その昔の制度のととのわないころは、大部屋に寄り集まって、年じゅうなにやらわからん議論をしておったのが、活気のもとだったそうだ。それが当今では、研究室が整備して、みんなが研究に専念しはじめて、かつてのホラフキの栄光はないのだそうな。
(同書、p. 214)

のだそうです。