羽田正『イスラーム世界の創造』(東京大学出版会、2005年、ISBN:4130130439)

物凄く時代遅れなきもしますが、飛行機の中で読了。面白い本でした。
簡単に言うと、巷に氾濫している「イスラム世界」あるいは「イスラーム世界」という概念は甚だ曖昧かつ主観的なもので、定義することが困難であるとともに、実は十八世紀に「ヨーロッパ」の対立概念としてヨーロッパで「創られた」概念であるというのが著者の主張である(主に第二部)。また、日本で特に良くこの言葉が用いられているのは、戦前からの「回教圏」研究が、イスラーム主義者によってポジティブな意味を与えられた「イスラーム世界」概念に基づくもので、戦後の「世界史」にもそれが持ち込まれたからだとも言う(主に第三部)。第一部ではそれらの論の前提とするために、中世中東のアラビア語ペルシャ語文献に「イスラーム世界」という概念・実体が存在しない(少なくとも重要なものとしては)ということを論証している。
この研究に対する学会の評価を僕はそれほどよく知らないし、近代以降のことについては能力の範囲外なので言わないことにして、第一部の論に関して若干考えたことを書いておこうと思う。
まず第一章だが、著者はアラビア語地理書文献の中に「イスラーム世界」に相当するような概念・考え方、あるいは用語といったものが存在するかについて検討している。実はアラビア語文献にそのような概念が存在することは氏も認めている。彼が取り上げた古典期の地理書の中ではムカッダスィーがそのような言葉を使って世界に言及している。これに類する概念を用いる地理書が他にも存在することも認めている。しかしこれらはバルヒー学派と呼ばれる「一部の人々」の叙述の方法であり、ムスリム全体に普及していた概念ではないと断じてしまう。古典期の地理書として著者が主に取り上げたのはイブン・フルダーズビフ、マスウーディー、ムカッダスィーの三者だが、この選択とそれらが初期・中期・後期を代表する地理書であるような取り上げ方も若干気になる。それぞれの本の史料的性格については多分著者も知悉しているとおもうのだが、その異なる性格、性質を持つ史料を一緒くたにして並べて、等価に扱ってしまっては説得性を失うのではないか。そもそもマスウーディーの著作を地理書と扱う点にも疑問がある(著者も註で言及してはいるが)。また上記の三人より後のアラビア語地理書として、イドリースィーとイブン・ハルドゥーンを挙げているが、これもまた特殊な例であって、標準と考えるのは若干難しいように思う。
その後著者はペルシャ語地理書に話を転ずる。ここで扱われるのは著者不明の『フドゥード・アルアーラム』とモスタウフィーの著作である。ここでもまた「イスラーム世界」という概念が彼らの地理書に見られないことが主張される。たしかにそうではあるのだが、これらはアフガニスタンの地方君主や、モンゴルの王に献呈された書物であり、その意味で「イスラーム世界」を描く意図が減殺されても不思議ではないだろう。また、「バルヒー学派」であったイスタフリーのアラビア語地理書がペルシャ語に翻訳されて広く読まれていた(と僕は思っているのだが)点も、さらっと流されてしまっている。またこれは検証を経ていない話だが、やはりペルシャ語というのはイスラームを語る言葉ではなく、イランをこそ語る言葉であると思う(少なくとも中世の文脈においては)。ペルシャ語地理書を書いた著者ももちろんアラビア語の読み書きはできたのではないかと思うし、それをペルシャ語で書くということ自体が、言い方は良くないが、一種のバイアスになっている可能性がある(若干アラビア語中心主義者風の物言いになってしまうが)。

疲れたので続きは後ほど。書くことの目次だけ。

・第二章のこと。歴史叙述の選択の仕方と分析の仕方。
・羽田先生はイランが好きなんだなあ
・近代と前近代は断絶しているか
イスラーム世界という言葉を使うことに問題はあるか
・現実に影響を与えることになった「イスラーム世界」という概念を現代研究に用いないのは不自然ではないか