夏目漱石「道楽と職業」

で、版権・著作権切れの文章というのがウェブ上に散在していることに気が付き、日本語のものを探してみたのですが、「青空文庫」が日本近代の作家に関してはある程度まで充実しています。で、表題の夏目漱石の講演を起こしたものを読んでみました。
彼は主に「職業」とか「仕事」というものを語る中で、最終的には芸術家とか学者というものについて語り始めるわけですが、結論的な部分が以下のように書かれています。長いですけど引用。

彼らは自分の好きな時、自分の好きなものでなければ、書きもしなければ拵《こしら》えもしない。至って横着《おうちゃく》な道楽者であるがすでに性質上道楽本位の職業をしているのだからやむをえないのです。そういう人をして己を捨てなければ立ち行かぬように強《し》いたりまたは否応《いやおう》なしに天然を枉《ま》げさせたりするのは、まずその人を殺すと同じ結果に陥《おちい》るのです。私は新聞に関係がありますが、幸《さいわい》にして社主からしてモッと売れ口のよいような小説を書けとか、あるいはモッとたくさん書かなくちゃいかんとか、そういう外圧的の注意を受けたことは今日までとんとありませぬ。社の方では私に私本位の下に述作する事を大体の上で許してくれつつある。その代り月給も昇《あ》げてくれないが、いくら月給を昇げてくれてもこういう取扱を変じて万事営業本位だけで作物の性質や分量を指定されてはそれこそ大いに困るのであります。私ばかりではないすべての芸術家科学者哲学者はみなそうだろうと思う。彼らは一も二もなく道楽本位に生活する人間だからである。大変わがままのようであるけれども、事実そうなのである。したがって恒産《こうさん》のない以上科学者でも哲学者でも政府の保護か個人の保護がなければまあ昔の禅僧ぐらいの生活を標準として暮さなければならないはずである。直接世間を相手にする芸術家に至ってはもしその述作なり製作がどこか社会の一部に反響を起して、その反響が物質的報酬となって現われて来ない以上は餓死《がし》するよりほかに仕方がない。己を枉げるという事と彼らの仕事とは全然妥協を許さない性質のものだからである。

まあこれは理想を語ったもので明治時代の現実というのはまた別だったと思うのですが、禅僧のような生活はキツイです(笑)この部分までの論理展開で、道楽を職業とする人々が「昔の禅僧ぐらいの生活を標準として暮さなければならないはずである」理由もちゃんと語られているので、興味のある方は自分で参照していただくとして、芸術や学問が、無報酬を前提として行われる場合と、パトロンの存在を前提として行われる場合の、どちらがより本来的であるかということは考えると面白い話題かもしれません。現在だけでなく昔でも、直接間接に関わらずお金を出す人の要請が芸術や学問に影響することはかなり多かったと思いますが、これは「良いこと」なのか、という点が僕にとって一つの論点です。あるいは大衆の要請や時代の要請といったようなものの場合はどう考えるのかもまた一つでしょう。
僕は人文系の学問のことしか知りませんが、一応今の現場では自分の研究が「いかに役に立つか」をアピールしなければならない場が多く、これはある意味では「己を枉げ」て「妥協」しているとも言えるでしょう。少なくとも僕は、自分の研究がなにかに「役立つ」からそれを研究しているわけではないですし、自分が研究していることが「なにに役立つか」をその都度探さなければならない事態に出くわすことがままあります。これは結局夏目漱石が言ったような道楽の精神が底にあって、非常にわがままであるためだと思うんですが、このような姿勢が良いものなのかは判断が付きません。まあ誰にとって良いものなのかという問題もありますが、まあ「学問」にとって良いものでしょうか。んー。
若干熱くなって話が展開しすぎて収拾がつかなくなった感がありますが、結構夏目漱石は面白い、というか示唆に富む文章を残していると思いました。まあぼちぼち他のものも読んでみたいと思います。