野家啓一『物語の哲学』(岩波現代文庫・学術139、2005)

「物語」と「歴史」に関していろいろ示唆に富む本なのだが。

ノートの上に一本の線分を水平に描いてみよう。それを時間軸と見なすことは、物理学の初歩を学んだわれわれにとっては、きわめて自然な発想である。話を歴史的時間に限るならば、線分上の各点にさまざまな事件や出来事を時間的順序に従って配列することによって、即成の簡単な年表ができあがる。
(中略)
線分を少しばかり左上がりに描いてみよう。するとわれわれはコンドルセとともに、苦もなく「進歩」のメタ物語を語ることができる。次にはいささか左下がりに描いてみる。言うまでもなく、今度はヘシオドスとともに「没落」のメタ物語を語ることができるはずである。
(pp. 127-128、強調は引用者)

「歴史哲学」について分析している部分なのだが、本題とは関係ないところで物凄く驚いたのが、この人の「時間」は「右から左に流れている」ということである。僕が文章を読みながら思い浮かべたのは完全に左から右へと時間が進む線である。勿論左右どちらを過去に割り当てても問題はないと思うが、少なくとも今の数学においては、x軸に沿って、左から右に増大するxの値を時間と見なすのが一般的なのではなかろうか。
ちなみに著者は「1949年生まれ。東北大学理学部物理学科卒業。東京大学大学院科学史・科学基礎論博士課程中退。現在東北大学文学部教授。専攻は科学哲学、言語哲学」だそうである。
日本語縦書きのスタイルならば時間は右から左に流れる。そういう年表もあるだろう。今回の場合も縦書きで右から左に進むという体裁を考慮したものかもしれない。しかしそうやって時間軸の直線が図示されたものを見たことはない。
アラビア語のようにそもそも横書きで右から左へ書く言語ならそういう方法もあるかもしれないとも思うが、少なくとも見たことはない。まあ時間があるときに近代イスラーム以降の歴史哲学の本でもめくってみたい。