「宗教は民衆の阿片である」再考

「再考」というほどたいしたものではないんですが、以前「『宗教は民衆の阿片である』?」という題名で、レジス・ドブレがマルクスのこの言葉は、阿片中毒者と修道士についての無知を露呈していると書いていることについて、書きました。僕は彼の指摘に感銘を受けたのですが、今日別の本の中でその言葉にまた出会って、やはりそれはレジス・ドブレの誤読(あるいは曲解)かもしれない、と思い直しました。
というのも、レジス・ドブレは「宗教」というものを「兵としての修道士」に結び付けているのですが、マルクスははっきり「民衆」と言っていて、修道士については言っていません。修道士がたとえレジス・ドブレの言うようなものだったとしても、マルクスの言葉が間違っていると直線的に言うことはできないと思います。
マルクスはやはり「阿片」を害悪だけでなく効果もあるものとしてとらえていたのではないでしょうか。マルクスは1818年生まれで1883年に死亡していますが、アヘンの害悪がはっきり認識され、反アヘン運動がおこるのは19世紀に入ってから、国際的にアヘン取り引きの規制が始まるのは20世紀になってからだそうです。一方ではアヘンは麻酔として広く使われていました。
これは調べてみないとわかりませんが、マルクスは我々がイメージするような「アヘン=阿片窟の中毒者」というイメージだけでなく、もっとポジティヴな、薬としてのイメージを持っていたのではないでしょうか。

「宗教は抑圧された人の嘆息であり、無常な世界における心であり、そして、魂なき状況の中の魂である。それは民衆の阿片である」

というのがググったときに出てきた原典らしき言葉ですが、これを見ても、やはり「麻薬」というよりも「鎮静剤」あるいは「なにか救いを与えるもの」という含意が込められているようにも思えます。原語で見てないのでニュアンスは微妙ですが、否定的な側面だけではないと思います。
そういう意味で、少なくともマルクスは「宗教的な信仰は強壮剤であり、催眠性の芥子、鎮痛薬なのである」とは考えていなかったのではないかと思います。現代ではなく「近代」の文脈において、宗教はすでに個人の心の問題に帰されていたことがマルクスの言葉からも読み取れます。現代に至って再び宗教は社会的な問題として浮上してきましたので、レジス・ドブレの考え方のほうが現代人にとってなじみ深く、それがある種の錯誤を引き起こしたということでしょうか。
というわけで一筋縄ではいきません。僕自身はあまり比喩を使わない方向にシフトしているのですが、書かれたものを読むときには比喩の解釈はどうにも避けられませんので、慎重にやらなくちゃいけないな、という自戒でした。